「また来ん春」(詩集「在りし日の歌」より)
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返ってくるぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といひ
鳥を見せても猫(にゃあ)だった
最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立って眺めてゐたっけが…
中原中也が、第2詩集として作った「在りし日の歌」は、
「亡き児、文也に捧げ」られている。
僕は以前、中原中也の詩は「ナイーブで辛気臭いだけの詩」だと思っていた。
しかしこの誌を読み、また中也晩年のエピソードに触れて、
僕は中原中也の詩への理解を深めた。
昭和11年11月、
中也の長男・文也は、小児結核のためわずか2歳の生涯を閉じた。
中也は初めは胃が悪いという程にしか思っていなかったのだが、
容体が急変し、徹夜の看護も空しく、とうとう亡くなってしまった。
その葬儀の日、中也は、文也の遺体を抱いて離そうとしなかった。
中也の母フクが、「やっとのことであきらめさせて」棺の中に納めさせたという。
四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、
中也は決して位牌の前を離れなかった。
中也は、文也が詩業を継いでくれることを願っていたようである。
彼は文也が生まれてからこのように書いている。
「文也も詩が好きになればいいが…。
二代がかりなら可なりなことができよう。
迷はぬこと。仏国十九世紀後半をよく読むこと。
迷ひは、俺がサンザやったんだ…。」
同年12月、次男・愛雅が誕生した。
しかしそれでも中也の精神錯乱は進んでいった。
幻聴が生じ、ラジオに向かってお辞儀をする。
屋根に登ってたたずみ、幼い頃からの作法を忘れてしまう…。
愛雅の誕生も、中也の心を癒すことはなかった。
中也は、文也に注いだような、親子二代がかりでの「詩」への傾倒という想いを
愛雅に対しては持つことができなかったのである。
それは、文也の死から愛雅誕生までの時間が、あまりに短すぎたから
かもしれない。
それだけではない。
中也の心の中には、いつも幼い頃に亡くした弟、亜郎の思い出があった。
中也は、8歳の頃、可愛がっていた弟、亜郎を失った。
軍医である父・謙助と母・フクとの間に生まれたふたりは
大変仲の良い兄弟であった。
幼い亜郎はいつも家の裏門で、学校から帰る中也を、
「兄ちゃん、はよう帰れ。」
と待っていたという。
亜郎の死後、中也は、自転車の籠にいっぱい花を摘み、
しばしば墓参りに出かけたそうである。
この時、中也が亡くなった弟に対して歌った詩が、中也の詩作の原点となっている。
中也にとって、文也の死は亜郎の死の再来であったのだろうか…。
中也の衰弱はさらに進んだ。
昭和12年1月、中也は強度のノイローゼで精神病院に入院。
翌月退院するも病状思わしくなく、
10月22日、入院先の鎌倉養生院で永眠。
病名は、
『結核の急性憎悪によって惹起せられた脳膜炎』
であった。
享年30歳。
死の間際、中也が母「フク」に残した最期の言葉がある。
「僕は本当は孝行息子だったんですよ…。今にわかる時が来ますよ…。」
この言葉は何を意味するのであろうか。
中也の死の3ヵ月後、次男愛雅もその短い生涯を閉じた。。。